「ルビーの指環」〜寺尾聰
「ルビーの指環」〜寺尾聰 最高1位12週(ベストテン内19週ランクイン)
ザ・ベストテン12週連続1位記録の寺尾聰さんの登場です。
寺尾聰は、3曲同時ランクイン記録等、ザ・ベストテンには欠かすことの出来ない存在です。
1981年3月19日に9位で初登場。
最高1位を12週。
10位以内に19週。
20位以内に23週。
1981年の年間1位。
1981/03/12 14位
1981/03/19 9位
1981/03/26 4位
1981/04/02 2位
1981/04/09 1位
1981/04/16 1位
1981/04/23 1位
1981/04/30 1位
1981/05/07 1位
1981/05/14 1位
1981/05/21 1位
1981/05/28 1位
1981/06/04 1位
1981/06/11 1位
1981/06/18 1位
1981/06/25 1位
1981/07/02 2位
1981/07/09 3位
1981/07/16 4位
1981/07/23 9位
1981/07/30 12位
1981/08/06 15位
1981/08/13 18位
オリコンチャート(レコード売り上げ)では、最高1位(134.1万枚)
1981年の年間1位(132.6万枚)。
文字通り、1981年を代表する大ヒット曲です。
寺尾聰さんは、GS時代にザ・サベージで活躍し「いつまでもいつまでも」がヒットしてます。
その後、俳優として活躍し、この「ルビーの指環」のヒットにより、音楽界に復活!
ザ・ベストテンでは、12週連続1位を獲得し、それまでの1978年の世良公則&ツイスの「銃爪」の10週連続1位の記録を初めて破りました。
この12週連続1位は、その後も破られること無く、ザ・ベストテン最高1位記録として残ってます。
この曲のヒット中は、誰が「ルビーの指環」の1位記録を止めるのか!が話題にもなりました。
この曲がずっと1位を取っていた為、近藤真彦さん、田原俊彦さん、松田聖子さん、それぞれいつもなら1位を取る筈だったアイドル達が2位でストップ!
面白いことに、この「ルビーの指環」を12週で止めたのが松山千春さんの「長い夜」です。
世良公則&ツイスの「銃爪」の1位を10週で止めたのも松山千春さんでした。
この「ルビーの指環」は、大人向けの曲です。
ジャズのナンバーの様な古い映画を思わせるノスタルジックな印象があります。
大人向けな曲が、ザ・ベストテンで1位を長く取ることに大きな意味があると思います。
アイドル全盛期のこの頃、やはり大人が聴ける曲を世間が求めたのかもしれません。
寺尾聰さんは、この年、多くの賞を総なめにし、レコード大賞を獲得。
紅白歌合戦にも初出場しました。
この「ルビーの指環」は、あまりに大ヒット曲過ぎて、説明も要らないかもしれません。
ザ・ベストテン世代にとっては、無くてはならない1曲でしょう。
寺尾聰さんですが、この「ルビーの指環」と同時に「シャドー・シティ」(最高4位)と「出航 sasurai」(最高6位)もザ・ベストテンにランクインし、同アーチスト3曲同時ランクイン記録を始めて築きました。
(後にチェッカーズも3曲同時ランクインを達成!)
寺尾聰さんのアルバム「Reflections」も164万枚のセールスを記録し、それまでの井上陽水さんの「氷の世界」の138.9万枚の記録を更新しました。
(1990年に松任谷由実さんの「天国のドア」が197.5万枚と記録を更新)
寺尾聰さんは、「ルビーの指環」のヒット以降、1982年に「Long Distance Call.」が最高19位。
以降、「飛行少年」「回転扉」「恋のトランス・コスモス」「インター・チェンジ」とシングルを発表しますが、ベストテン入りならず!
その後は、俳優業を主とし、映画「雨上がる」や「半落ち」で数々の映画賞を受賞します。
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寺尾聰さんのプロフィール
1947年5月18日生まれ。
1964年、カレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」を結成。
1966年、「いつまでもいつまでも」でレコードデビューし大ヒットする。
1968年、石原裕次郎製作・主演の映画「黒部の太陽」で俳優デビュー。以降テレビドラマ「大都会」「西部警察」「太陽にほえろ」等、俳優として活躍する。
1981年、「ルビーの指環」が大ヒットし、大ブームとなる。レコード大賞受賞。紅白歌合戦初出場。
1985年、黒澤明監督映画「乱」に出演。以降「夢」「まあだだよ」と黒澤作品に出演する。
2001年、映画「雨あがる」で、日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞。
2005年、映画「半落ち」で、2度目のの演技で日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞。
2005年、7月7日の「CLUB CITTA川崎」でのライブを期に18年振りに歌手活動を再開。
2006年、20年ぶりにアルバム(ニューアレンジセルフカバー)「Re-Cool Reflections」を発表。
2007年、紅白歌合戦に26年振り再出場する。
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「2世タレント」ですね
この頃はあまり面影がなかったのですが
歳とともに名優・宇野重吉に似ていきました
当初サングラスがトレードマークだったのも
偉大な父に似た目元に何らかの負い目を感じていたのではないでしょうか
私には偉大な親がいないので想像できませんが
親を超えられなかった「2世」の例が少なくないことをみても
相当の苦悩があったと思われます。。。
この曲を出すときに初め事務所は
「暗すぎる」とGOサインを出さなかったのですが
ボスこと石原裕次郎の「いいんじゃないの」という鶴の一声で
リリースされたというエピソードがあります
もっともこの頃は「○○の兄弟分」などの
“箔付け”が珍しくなかった時代ですから
そのエピソードも9割がたネタだろうと私は今では思っています
コメント by ぷらだ — 2007/8/7 火曜日 @ 1:20:25
寺尾聰さんは、宇野重吉さんの息子でしたね。
すっかり忘れてました。
確かに2世タレントってことで、たたき上げのアーチストより大変だったと思います。
大ヒット曲を出し、俳優としても最近は評価も受けて、そういった呪縛からは解放されたのでは!
今考えると「ルビーの指環」は、大ヒットするタイプの曲ではなかったかもしれません。
時代だったのかもしれません。
波に乗った!
そんな感じがします。
コメント by ベストテンマニア:K — 2007/8/8 水曜日 @ 0:10:05
寺尾聰のピーク時の売れ方は、ピンクレディや後のチェッカーズに似通っているように思います。(いずれのアーティストも3曲が同時期にヒットしていますね)
ピンクレディとチェッカーズはその後一世を風靡し、2年間位向かう所敵無しの状態でしたが、寺尾聰は残念ながらその後が続きませんでしたね。
一説によると色々トラブルらしき事があり、せっかく「ルビーの指輪」で人気がピークに達したにも関わらず、レコードがリリース出来ない状況だった様です。
もし順調にリリースが出来ていたら、後の鈴木雅之の様なポジションを手に入れていたかも知れないですね。
そういえば、グループ出身・シティポップス・サングラス^^と共通点が多いですし。
コメント by すみっこ — 2007/11/4 日曜日 @ 22:38:17
寺尾聰さんは、「ルビーの指環」以降、1年以上シングルを出せない状況でしたね。
事務所側のトラブルだったんでしょうか?
まさしく、一時期だけのブームでした。
この時代は、ブームは長続きせず、あっと言う間に幕を閉じることが多かったです。
それでも俳優としてのキャリアの方がパワーアップしましたね。
コメント by ベストテンマニア:K — 2007/11/6 火曜日 @ 23:05:06